アメリカでは本日(2021年1月7日)
トランプ大統領が
「コロナ詐欺を暴露して、
真実が白日ものもとにさらされ、
世界に平和が訪れる」
という情報が流れています。
これを信じたネット民の人たちが、
ツイッターやフェイスブックで
いろいろと情報を出しているようですが、
これは俗にいう「陰謀論」を信じる人に向けた
プロパガンダである可能性があります。
今日のニュース【1月7日 AFP通信】で、
「バイデン勝利を確定させる上下両院合同会議が
開かれている6日、連邦議会議事堂に
トランプ大統領の支持者らがバリケードを突破し
議事堂内に侵入、1人が撃たれ死亡」
と速報が流れました。
これは過度にトランプ氏に
救世主のような期待を寄せた
支持者たちによる行動か、
はたまた
過去のデモや暴動でもあるように、
体制側が忍び込ませた
内部工作者が、
過激派を偽装して起こしたものかは不明ですが、
いずれにせよ、起きていることは、
「アメリカ国民の分断」です。
「民主党バイデン支持者」対「共和党トランプ支持者」
「マスコミの情報を信じる人」対「ネットのQアノンの情報を信じる人」
という構図です。
ここ最近、アメリカで出てきたQアノン系の陰謀論は、
「ディープステート」「善の勢力」という言葉を巧みに使い、
従来の陰謀説に見られる政治の裏側の仕組み、
民主党も共和党も、政党に関係なく
金融権力の支配下にあるという基本構造の説明を省いており、
ネットの陰謀論を信じる人や、スピリチュアル系の人々を中心に、
「トランプ氏やQ運動が世界を救ってくれる」
という偽の希望を見させて、
誤誘導している一面があります。
このような見解を出し過ぎると、
トランプ氏に希望を見出している人からは
「あなたこそ分断工作者だ」と
感情的に反応されてしまうため、
THINKERでは、
明言をさけてきました。
しかし、今回のような事態が発生してしまった時期には
見解をはっきりさせておく必要があるため、
今回伝えさせていただきます。
トランプ氏個人については、その大胆な人格や
「アメリカファースト」という他国に関与しすぎない政策など、
評価できる良い所もたくさんあります。
しかしながら、これまでトランプ氏は時々で
意見を都合よく変えたり、
ヒーローのイメージの裏に、
これまでの大統領と同じで、
金融権力の傀儡の面があります。
たとえば、
選挙戦中は「ワクチンなど効かない」といったかと思うと
大統領になってからは、
強力なワクチン推進派に転じています。
また、戦争をしない平和主義者のイメージが
ネット民の間で喧伝されることがありましたが、
トランプ政権が要求した
2020年会計年度の米国防費は
7500億ドル(約80兆円)
で過去最高額だったりします。
トランプ氏に過度の期待を寄せる人は
このような面も見ておく必要があります。
ディープステートを排除し、アメリカ政府内の
悪者をすべて退治してくれるヒーロー像は、
Q運動、Q思想によって作られた架空のイメージなのです。
そして、そのイメージを作っているのは、
旧来からの金融権力に他なりません。
この構造が見えなくなくしているのが
昨今、普及しているQ運動、Q思想という
プロパガンダとしての陰謀論になります。
トランプ氏の都合の悪い面に目を向けずに
一面だけの情報を追って、
そこに全ての希望を賭ける心理。
その根底にあるのは、
コロナ禍をめぐる急激な社会の変動で
現実の社会があまりにも混乱し、
社会全体においても、個人の人生においても
経済的に追い込まれ、
また家に閉じ込められ、
移動の自由が制限され、
人とも自由に会えない不満や怒り、
未来への希望が見えないという、
絶望感の蔓延です。
このような社会状況の中で
真の権力側は上手く大衆心理を把握しており、
彼らが頼りにしたいヒーロー像を提供しています。
ヒーロー像を待ち望むのは、当然の心理ですが、
それは「絶望→思考停止→偽の希望に思いを託す」
という現実逃避です。
Q運動の思想では、悪者が排除されれば
平和な世界が訪れるといいます。
しかし、たとえ悪が完全に排除され、
お金のない世界、借金のない世界が到来しても
そこには別の悩みが存在するでしょう。
人生のやりがいの探求という点では、
常に人類は悩み続けることでしょう。
また、悪はなくなりません。
今後も一定数で悪の役割を担う人々は存在し続けるでしょう。
完全に排除して、全員が善人となる社会ができたら、
その中から一定数は悪の役割を担う人々になる。
この繰り返しだとおもいます。
THINKERで問いかけたいことは、次のことです。
「自分には何もできない」
「トランプのようなヒーローしか世界を救えない」
この考え方は本当なのか?
このような他者に依存した希望、
これは自分に対する絶望の裏返しではないか?
一個人として、できるのは、
この明らかにおかしなコロナ騒動の中でも
日々の生活や身近な人々との関係の中で
強烈な喜びや喜びを見い出すことが可能ではないか、
そこに最大の価値を認めることではないか、
ということです。